2023年1月の霊想

情熱の人に(1月1日)

世の中には2通りの人がいます。

一人は、どのような状況に遭遇しても自分に与えられた情熱の炎(祈り)で魅力的にまわりを照らし出す人です。もう一人は、情熱の炎で照らしてくれる人を探し続けるタイプです。

得てして、人は先んじて前に行くよりも、人の後ろで雨風を避けながら行こうとしがちです。受け身でいると傷つかず、楽だからです。しかし、心のふるさと(神の国)に立ち返り、自ら進んで先を行く情熱をかもし出すことは、何とすばらしい生き方でしょう。

情熱は、燃やせば燃やすほど増え増し加わる天来のエネルギーです。物事を最終的に動かすものは、情熱です。哲学者ラルフ・ウォルドー・エマソンは、「情熱があればどのようなことでもできる」と語りました。

この情熱は、神様との交わり、祈りによって点火され、あなた自身を動かすばかりでなく、あなたを通して、まわりの人々にもその熱量、明るさ、あたたかさをもたらします。

今年も、いつも信仰の原点に帰り、「イエス様は私に希望と情熱をもたらした唯一の方」と賛美し、祈りながら、この時代の 灯(ともしび)として歩みましょう。

慰めの神(1月8日)

「 神は、 いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり」(IIコリント1:4)

今日の聖句で、「わたしたちを救い出して下さり」とは書かれていないことに注目しましょう。正しくは、「わたしたちを慰めて下さり」です。患難や試練が全くない小春日和のような毎日を歩ませてあげよう、ではありません。神は患難の中に人間を置いたままにし、そこで神の慰めを味わわせるというのです。

その理由は、あなたがその患難に耐える力を持っているからです。高齢者の方が、自立できるのに周りから世話を焼かれすぎると、今まで自分で出来ていたことが出来なくなることがあります。神はあなたが「この試練を通れる人物だ」と見込んでおられるからこそ、必要な力づけを与えるだけにしておられるのです。

しかし、試練の中を通る力があると言われても、やるのは自分です。当然、孤独と不安の闇の中を通ります。ですから、そこで得た神の慰めは本当に力になります。そうやって、体験者のみが持つ力強さを身につけていくのです。

あなたを慰めて下さる神がおられます。そして、あなたを通して慰められる人が将来備えられていることを、心に覚えてまいりましょう。

十字架を負う(1月15日)

「自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。」(ルカ 14:27)

十字架を進んで負う人は少ないものです。むしろ、自分の意に反して十字架を負わされた人の方が多いのです。逆に言えば、そのような人こそキリストの弟子となる道が開かれた人です。

25 年前、教会に筋ジストロフィーの青年が来られました。困難な状況や将来への大きな不安を持つ彼に、私は「恐れていることの9 割は起きないと言いますよ」と、この世の理論で慰めようとしました。しかし、それは単なる気休めとしかなりませんでした。

25 年経ち、「神様がいるのならなぜ...」と思うような十字架を負わされた彼は、透徹した信仰へと導かれました。自分の病と命の限りを受け入れ、誰をも恨むことなく、ただ「イエス様の弟子として、困った人たちに元気をあげたい」と語る人となっていたのです。「神も仏もあるものか」と思えるような試練を通った人だけが持つ信仰です。

負わされた十字架は、あなたが捨てさえしなければ負いきれます。もちろん犠牲は払います。しかし、その先に、あなたが思いもよらない実を結んでいる人生があることを、忘れてはいけません。

平安の人生(1月22日)

すると、イエスは彼らに言われた、「わたしだ、恐れることはない」。(ヨハネ 6:20)

今日の聖句は、5000 人の給食の奇跡の直後の箇所です。そのような大きな出来事の後ですから、「何が来ても大丈夫」という勇ましい気持ちになっていても不思議ではありません。しかし、その時の弟子たちはやみ夜のガリラヤ湖上で風と波に翻弄され、何の力も湧いてきませんでした。

人間の現実とはこのようなものです。聖書は、神がこの世におられるとはっきり分かった奇跡の後でも、私たちは不安定な生活に突入することがあるのだ、と告げています。

しかし、神がいるならどうして、と思わざるを得ないような中にあって、「わたしだ、恐れることはない」という御声を聞くのです。これが本当の平安です。試練や困難がないことが平安なのではありません。試練や困難はしょっちゅうやって来て、不安と心配の嵐が吹き荒れる中、「わたしだ、恐れることはない」という御声を聞き、慰めを得、そこで得られる平安こそが、同じ苦境にいる他者を慰め、分かち合える平安となるのです。

今週も神の平安に包まれますように...。

最善の人生(1月29日)

どうか、主が良いと思われることをされるように。(歴代志上 19:13)

「天は自ら助くる者を助く」という言葉があります。その意味は、「人に頼らず自分自身で努力する者には、天が助け、幸福をもたらす」ということだそうです。確かに、自分を励まし、自分を助けようとする努力は必要ですが、「天は自ら助くる者を助く」だけですと、努力しない人間には神の助けはない、という意味にもとれてしまいそうです。

聖書にあるのは、「どうか、主が良いと思われることをされるように」という祈りです。一見、自分はお手上げで何もせず、全部神様に丸投げし、努力をしない勧めのように思えます。しかしそうではありません。これは、「神は最善をなされる」という信仰告白なのです。その神の最善の中に私も参加し、「一生懸命させていただきます。しかし、結果がどうなろうと、神様におゆだねいたします。」というのが信仰者のあり方です。ここに信仰と現実の両輪がマッチして走り出す道があります。

「どうか、主が良いと思われることをされるように」という祈りを捧げ、今週も全力で走り抜いて参りましょう。

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