2023年5月の霊想

羊飼の声(5月7日)

羊はイスラエルの人々にとって、生活や財産と密接に結びつく存在でした。その羊を守るのが羊飼です。牧者であるキリストは、大切な羊であるクリスチャンを命がけで守ります。

 「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)。

 ある時、「先生、私は頭が悪いので、聖書を読んでも説教を聞いてもよくわかりません。でも、神様の御心の通りに生きたいと思います。どうやったら『こっちが神様の方向だな』とわかりますか?」という率直な質問を受けたことがあります。「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(ヨハネ10:10)という御言葉を示しながら、私はこう言いました。「あのね、神様は羊である私たちの命を豊かにしようとされる御方なんだ。だから、『なんだか命がしなびていくようだなあ』と感じたら、それは神様の方向ではないということですよ。そして、『なんだか命が踊るなあ』と感じて生き生きするようなら、そちらが神様の方向です」。

 かなり単純化して話しましたが、これがその人にとって良かったようです。ニコニコしながらお帰りになり、その後は平安なお顔で礼拝に出席されています。

今週も大牧者であるイエス様の声を聞き分け、命の世界を歩んで参りましょう。

母さん、ありがとう(5月14日)

70代のお母さんが、とある宗教団体のセミナーに参加し、足繁く通っています。クリスチャンの息子はそれをこころよく思ってはいませんでしたが、「母さんの人生だから」と見て見ぬふりをしていました。

 ところが事情が変わりました。「あなたもこれ飲んでみたら」と、そこで買ってきた高額商品を勧められたからです。彼はどうやったら母親に間違いを悟らせ、説得できるかと牧師に相談をしに来ました。

 苦労されたお母さんだったのです。苦労や悲しみで弱った心には、「今すぐ楽になれますよ」という言葉は魅力的に映ります。お母さんにとっては、ようやく得られた安心の場を、息子と分かち合いたいという、単純な一心で高価な買い物をしたのです。お母さんが本当に欲しいものは親子関係の愛。息子さんとの間でそれが得られれば、もうどこへも行かなくて良くなります。ですから 牧師の答は「『母さん、ありがとう』と言って受け取りなさい」となりました。

 彼のそれからは、母親を直してやろうという生き方から、母親に仕える生き方の訓練の日々となりました。人はこのようにして神の不思議なご計画の中でキリストに似た人格へと成長させていただけるのです。

 「すべての事について、感謝しなさい」(第1テサロニケ5:18)

この御言葉に従い、祝福を得て参りましょう。

祝福となる(5月21日)

相変わらず心痛むニュースが報道されています。この窮状から人類を救うため、神はアブラハムを選び、「あなたは祝福のとなるであろう」(創世記12:2)と、将来に続く人々への祝福となる契約を彼と結ばれました。キリストへの信仰を通してアブラハムに連なる者は、この約束を継承し、他者への祝福となる生き方をするのです。

 アメリカ建国史に必ず登場するのは、メイフラワー号でやって来たピューリタンです。信仰の自由を求めたこの英国のクリスチャンたちは、ワイン積載用の中古の船を買い取り、アメリカという新世界に出帆しました。約2ヶ月の船旅の途中、2名が亡くなり、2人の赤ちゃんが誕生しました。102名が到着したのは、目指すニューヨークよりもずっと北のニューイングランドでした。家もなく、食べ物も乏しく、極寒の冬を越した春、彼らの半数は亡くなっていました。

 そのことだけを見れば、この旅は無謀で失敗だったと結論づけることもできるでしょう。しかし、彼らの存在とその働きが、後のアメリカ国民をどれほど勇気づけたかわかりません。ピューリタンたちは多くのものを失いましたが、神の約束通り祝福の基となったのです。

神の声を聞いたら、一歩踏み出しましょう。失うものはあります。しかし、あなたは永遠に続く祝福の基となるのです。

バプテスマのヨハネの道(5月28日)

四福音書全てが取り上げている記事は少ないものです。たとえば、キリスト降誕の出来事はマタイとルカにはありますが、マルコとヨハネにはありません。バプテスマのヨハネの記事は貴重なその一つです。彼が伝えたメッセージは、「主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ」(マタイ3:3)です。救い主キリストを迎え入れる前に、『ヨハネの道』を歩む準備が必要だと聖書は語っています。

 ところが、まっすぐ生きようとする意志を貫ける時もありますが、それだけでは相手も自分の身も持たない時があります。自分の意志を曲げたり、意見を控えたりしなければこの世を生きていけない自分の弱さ、至らなさを知るのです。

 バプテスマのヨハネが準備した道を歩んだ人だけがわかることは、「御心にそぐわない生き方をしなければ生きていけないほど、自分は神の前ではみじめな者であり、罪深い者だ」ということです。しかし、その私を無条件で救って下さるキリストと出会うためには、一度『ヨハネの道』をたどる必要があるのです。すると、ちょうどラジオの周波数が合って、今までの雑音から急に美しい音楽が聞こえてくるように、聖書の語る言葉が心に入って来ます。救いを実感するのは、まさにこの時です。

 今日、「私はどうなのか?」という問いと共に、今週の一日一日を送って参りましょう。

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